原民喜関連エントリー

■原民喜の詩碑に出会う

... 原民喜の詩碑は、原爆ドームの近くに、ひっそりと建っていた。多くの人が行き来するが、小さく目立たないのでだれも気づかない。 ... そのひそやかな詩碑は、いかにも原民喜らしいと思った。慎ましく、原爆ドームを間近に見つめ続けている。 ...

■原民喜の詩碑に出会う

[散文] 原民喜「鎮魂歌」

原民喜「鎮魂歌」 高校生のための文章読本より それは僕のなかにあるような気がする。僕がそのなかにあるような気もする。 僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。一つの嘆きよ。僕をつらぬけ。無数の嘆きよ、僕をつらぬけ。 ...

[散文] 原民喜「鎮魂歌」

原民喜再読

... メディア: CD 映画ではこれに原民喜の『夏の花』や『鎮魂歌』が重ねられるという。 (朗読は、詩人の野村喜和夫。) 原民喜は著作権が切れているので、「青空文庫」でも多く読むことができます。 作家別作品リスト:原 民喜 そんなわけで予習もかねて ...

原民喜再読

[読書]原民喜『ガリバー旅行記』

... ですから、今回読んだ原民喜のものと細かく相違点を指摘することはできないのですが、全体を読んだ印象ですと、目立った違いはないように感じられました。 ぼくらは、原民喜が1945年8月6日広島で原子爆弾を被爆したこと、そしてその被爆体験を ...

[読書]原民喜『ガリバー旅行記』

原民喜さんのこと 原爆小景 広島原爆の日を迎えて

... 「原民喜」さんという「忘れかけられた存在」となりつつある詩人「原民喜」を当時人気を博した「狐狸庵シリーズ」の中で危機感をもって紹介されておられました。 「原民喜」さんをご存知無い方もおられるでしょう。彼は1945年の今日、広島で被爆。 ...

原民喜さんのこと 原爆小景 広島原爆の日を迎えて

原民喜に関するニュース


中国新聞

広島の文学資料 散逸防ぎ活用の道探れ
中国新聞
峠三吉、原民喜…。作家の考えや作品の成り立ちに迫ることは、ヒロシマの発信にもつながるだろう。 さかのぼれば児童雑誌「赤い鳥」を創刊した鈴木三重吉、新劇の生みの親として知られる小山内薫ら戦前の文学者。現役で活躍する竹西寛子氏や阿川弘之氏もいる。 ...


中国新聞

大江氏書簡など8000点寄贈 広島大に遺族
中国新聞
また、現在は平和記念公園にある原民喜詩碑の建立に共に尽力した梶山季之、原爆歌集「さんげ」作者の正田、山と海の暮らしをとらえた民俗学者宮本常一や作家山代巴との親交を伝える書簡も残っていた。 資料は、金井氏の長女山本ゆみ子さん(61)が広島市東区の旧宅で ...

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原民喜旅行記

祈る旅。原爆ドームのそばに。(by 貝坊主。さん)

原民喜
夏になると毎年。思うのは戦争のこと。

今年も激しく戦争のことばかり考えていた夏が過ぎようとしています。

原民喜氏の『夏の花』を気持ちの片隅に
ドームのそばに行きました。
原氏の碑があるとは知っておりましたが
なぜだか近づけなかった。そんな一日。

【旅行時期】2009/09/11~2009/09/11
【エリア】県庁・平和記念公園周辺
【テーマ】世界遺産・遺跡
【投稿者】貝坊主。

原民喜とは?

原 民喜(はら たみき、男性、1905年11月15日 - 1951年3月13日)は、日本の小説家、詩人。
1905年11月15日に広島県広島市で生まれる。1923年広島高等師範学校付属中学(現・広島大学附属中学校・高等学校 広島大学附属高等学校)四年を終了し、大学予科の受験資格が与えられた為に一年間登校せず、ロシア文学を愛読し、宇野浩二に傾倒。詩作を始め、室生犀星、ヴェルレーヌの詩を耽読。1926年、辻潤、スティルネルに惹かれる。一時左翼運動へ関心を高めるが、次第に離れていった。1933年に慶応義塾大学英文科を卒業。相当の身代金を出し、本牧の女性を自由にしてやり、一ヶ月間同棲をするも、裏切られた為にカルモチン自殺を図るが失敗する。1933年佐々木基一の姉、永井忠恵と結婚。1936年以降旺盛だった創作力が1939年の妻の発病により衰える。1944年妻が糖尿病と肺結核の為死去。1945年8月6日に広島市に原爆が投下され、生家で被爆する。幸い厠に居た為、一命を拾ったものの、以後原爆症とはいえぬが、健康は優れぬときが多くなる。この被爆体験を美しく冷静な文体で『夏の花』に著し、高い評価を受ける。1951年3月13日午後11時30分、中央本線 中央線吉祥寺駅、荻窪駅間の線路に横たわり、自殺を遂げる。「もし妻が死んだら一年間は生きていよう。悲しく美しい一冊の詩集を書き残す為に。」と語った彼が皮肉にも愛妻の一周忌を迎える前に被爆し、それによって被爆の惨劇を残さねばならないという使命感が動き、1951年まで生きながらえた。亡くなる数年前にU子という少女に出会い、遠藤周作らと共にハイキングに行くなどした。当時の事を彼は遠藤周作宛の最後の手紙に「2年前は楽しかったね。」と書いた。その時、氏は「僕は雲雀です」と呟いた。

原民喜の詳細